缶を持った手が、天井を見上げたまま止まった。
白い円盤が一枚。押せば十秒後に煙が出る、そのタイミングでアオイさんは動けなくなった。
「これ、鳴りますよね。鳴ったら建物全体に響くやつですよね」
そのためらいは正しい。住宅に付いている火災報知器のおよそ九割は、煙を感知して鳴る種類だから。
賃貸でくん煙剤を使うときにいちばん先に片づけるべきなのは、虫ではなく天井のほう。
焚く前に、天井の白い円盤を見上げる
煙で鳴るのか、熱で鳴るのか
感知器には煙式と熱式があり、煙タイプのくん煙剤に反応するのは前者。
本体の側面や裏に品名が印字されているので、脚立に乗って確かめる。煙式、光電式といった文字があれば煙で鳴る種類。定温式や差動式なら熱で鳴る種類で、煙では作動しない。
台所や脱衣所に付いているものが、火災報知器ではなくガス警報器という場合もある。部屋ごとに見落とさないよう、一周して数える。
判断がつかないなら、煙式だと思って扱う。それがいちばん事故が少ない。
覆うのは必須、外し忘れがいちばん怖い
バルサンの説明書にも、火災報知器にカバーをする旨が書かれている。専用のカバーが同梱されている製品も多い。
やり方は単純で、感知器全体を包み、ふちをテープで留めて隙間をなくす。付属品がなければポリ袋でも代用できる。密閉できているかどうかがすべて。
そして、ここからが本題。使い終わったら必ず外す。
覆ったままにしておくと、本物の火事が起きても鳴らない。消防設備の点検で共同住宅に入ると、熱感知器に不要なカバーが付けっぱなしになっている部屋が見つかることがあるという。数か月、あるいは数年、警報器がただの飾りになっていたということ。
玄関のドアに付箋を貼っておく。換気のために窓を開けるとき、その紙が目に入る。それくらいの仕掛けを用意しておくと忘れない。
賃貸で選ぶなら、煙より霧
三つのタイプの違い
いま市販されているものは、大きく三つ。
昔ながらの煙が立つタイプ。水を入れて反応させる水タイプ。そして噴射する霧タイプ。
虫への効き目でいえば煙タイプがいちばん強い。ただし集合住宅で使うには、その煙が最大の弱点になる。
霧タイプは煙が出ないので、火災警報器に反応しにくいと明記されている製品がある。カバーの手間も減る。効き目が落ちるぶんは、後述する毒餌との併用で埋められる。
熱感知器しかない部屋に住んでいるなら、迷わず煙タイプでいい。そこが確認できているかどうかで、選択肢の幅が変わる。
それでも、古い感知器は反応することがある
霧タイプならカバー不要、という説明を見かける。おおむねそのとおり。
ただし感度の高い古い機種や、感知器の真下で噴射した場合など、ごく少量の霧でも作動する可能性は残る。
念のため覆っておく。数分の手間で、隣室から人が飛び出してくる展開を避けられる。
管理会社に一報を入れておく
室内の警報が、管理室につながっていることがある
自室の警報器が独立して鳴るだけなら、被害は自分の耳だけで済む。
問題は、建物の自動火災報知設備に組み込まれている場合。この構造だと、一室の感知が共用部のベルや管理室の受信機まで届く。
全戸に響く音声が流れ、消防へ自動で通報される仕組みが働くこともある。個人の部屋の話では済まなくなる。
事前に使用する日時、部屋番号、使う製品の種類を伝えておく。それだけで、万一のときの混乱がまるで違う。
規約で制限されている物件もある
管理規約でくん煙剤の使用そのものが制限されている建物がある。入居時に受け取った資料を見返すか、電話で聞く。
禁止されている場合は、業者による施工を手配してもらえることが多い。害虫の発生が建物側の構造に起因しているなら、費用の負担について相談できる余地もある。
黙って焚いて、においが共用廊下に流れ、隣人から苦情が入る。この順番でバレるとやりにくい。先に言っておくほうが、結局は楽。
鳴ってしまったときの動き方
止め方が二種類ある
住宅用火災警報器が鳴っている場合、本体で赤く点滅しているボタンを押すと音が止まる。単独で設置されているタイプ。
建物全体でベルや音声が鳴っている場合は、受信機の操作が必要になる。これは管理室や共用部にある設備で、住人が触れる場所にないことも多い。
その状況になったら、すぐ管理会社か大家さんへ連絡する。何が起きたかを正直に伝える。隠すと調査に時間がかかり、消防設備の業者を呼ぶ費用の話がこじれる。
配線に手を出さない
音を止めたい一心で、感知器を外したり配線を引き抜いたりするのは避ける。
機器を壊してしまえば交換費用が発生するし、その間は建物の防災設備が欠けた状態になる。
ケンさんは以前、鳴り出した警報の下で椅子に乗ったまま数分固まっていたらしい。結果的に何もしなかったのが正解だった。
一回焚いても、また出る理由
卵には届かない
ゴキブリの卵は卵鞘という硬い殻に守られていて、セメントのように薬剤をはじく。
つまり一回の処理では、そのとき動いていた個体しか減らない。二週間から三週間後、卵がかえるタイミングでもう一度焚く。この二回目までがひとつの作業。
一般家庭にいるクロゴキブリは、ほぼ一年かけて成虫になる。長い目で見た周期で付き合うことになる。
隙間から隣へ逃げる
薬剤が広がると、虫はわずかな隙間を通って別の空間へ移動する。
一戸建てなら全部屋を同時に処理すれば済む。集合住宅だと、逃げ先が隣の部屋になる。そして薬剤が抜けたころに戻ってくる。
自分の部屋だけを何度焚いても手応えがないなら、原因は隣か、共用の配管の中にある。管理会社を通じて建物ぐるみで対応してもらうほうが早い。
それから、くん煙剤は狭い隙間の奥まで届かない。冷蔵庫の裏、シンク下の配管まわり、家具の内部。薬剤が回らない場所が必ず残る。
焚いた後にやることで、差がつく
換気と掃除機
規定の時間を置いたら、窓を開けて風を通す。三十分ほど。
床には死骸が落ちているので、換気のあとに掃除機をかける。放置すると別の虫を呼ぶ。
食器や調理器具にカバーをかけ忘れていたら、洗い直す。ペットや観葉植物は事前に外へ出す。金魚の水槽は密閉して、エアポンプを止める。
毒餌と、侵入口
ここが本命。くん煙剤は、その場にいる成虫を落とすための道具にすぎない。
置き型のベイト剤を、冷蔵庫の裏、シンク下、コンロ脇、洗濯機の後ろに仕込む。食べた個体を通じて連鎖的に効いていくので、隙間の奥まで届く。
同時に入口を減らす。排水口、配管と床の継ぎ目、換気口、エアコンの配管まわり、玄関の隙間。ここを塞ぐと、そもそも入ってこない。
アオイさんは結局、霧タイプを選んで、感知器にはポリ袋をかけた。玄関のドアには外し忘れ防止の紙。二週間後にもう一度焚いて、その間ずっとシンク下にベイト剤を置いている。
夏が終わるまで、部屋で出会っていないという。

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