握手する形の黒い塊が、リビングに届いた日
住人の一人が段ボールを開けた瞬間、長机にいた三人が手を止めた。
出てきたのは、縦に立ったマウス。手を添えると、握手の姿勢になる。
購入したのは佐倉さん。Web制作で、朝から晩までマウスを握る仕事です。夕方になると右手首の内側がヒリヒリして、寝る前に湿布を貼る生活が半年続いていた。
三日後、その人はぼそっと言いました。
戻していい?
エルゴノミクスマウスは万能薬みたいに語られがちだけど、実際に導入した現場で起きたことは、もっと泥くさい。都内のシェアハウスで在宅ワーカーが数人暮らしていると、こういう買い物の失敗と成功が全部リビングに集まってくるんですよ。半年かけて見えてきたものを、順番に出していきます。
最初の2週間、作業速度は確実に落ちる
これがいちばん大きな代償。買った翌日から快適になると思っていると、まず心が折れます。
クリックの瞬間、カーソルが数ミリ滑る
縦型マウスは手のひらを内側に向けたまま操作します。親指が上、小指が下。この姿勢だと、クリックする力の方向が真下ではなく、やや斜めに入る。
佐倉さんの手元で何が起きたか。ドラッグしたファイルが、隣のフォルダに吸い込まれた。チェックボックスを押したつもりが、一つ下の項目を選んでいる。細かいズレなんだけど、一日に何百回もやる操作だから、確認と修正で時間が溶けていく。
体感で作業時間が三割増し。納期が近い週にこれをやると、キーボードを叩く音が明らかに荒くなります。(うわ、また外した…)と舌打ちが漏れる感じ。
トラックボールは、狙った一点に止まらない
動画編集をしている三上さんは親指操作のトラックボールを選びました。腕を動かさずに済むので、机が狭くても使える。そこは想定通り。
詰まったのはタイムライン編集でした。クリップの端を一フレーム単位でつかむ作業。親指の腹でボールを転がす動きは、腕全体を動かすより慣性が効きにくく、狙った位置の手前で止まるか、通り過ぎるかの二択になる。カットのイン点を合わせるのに、以前の三倍の時間がかかったそうで、初日は日付が変わっても終わらなかったと言っていました。
慣れるまでの目安は二週間から三週間。ここを乗り切れるかどうかで評価が真っ二つに割れます。
デスクを占領し、カバンには入らない
縦型マウスは高さが7センチ前後あるものが多い。普通のマウスを横から見ると平べったい石ですが、こちらは立方体に近い。
持ち運ぶ前提なら、選択肢はほぼ消える
ノートパソコンと一緒にカフェへ行く住人が、一度だけ縦型を持ち出しました。結果、ガジェットポーチのファスナーが閉まらない。仕方なくトートに直接放り込んだら、駅の階段でゴトッと嫌な音がした。あの時の顔は忘れられません。
さらに、狭いテーブルだと腕を引くスペースが取れない。エルゴノミクス系は本来、肘から先を大きく使って動かす設計です。膝の上や、コーヒーカップに囲まれた30センチ四方では、その恩恵がまるごと消える。
外で作業する時間が長い人は、薄型の小さなマウスのままでいい。無理に持ち出すと、荷物が増えて肩がこるという本末転倒が起きます。
安いモデルを選ぶと、半年で買い直す
価格帯は1万円前後が主戦場。普通のマウスの三倍から五倍です。
3000円台を買った住人のその後
最初に手を出した一人は、通販で見つけた無名ブランドの縦型を選びました。形は似ている。持った感じも、まあ悪くない。
四か月目からチャタリングが始まりました。一回押したはずのクリックが二回入る。ファイルをダブルクリックで開いたつもりが、リネーム状態になって焦る。センサーも弱く、布のマウスパッドの縫い目でカーソルが飛びました。
結局その人は半年後に定番モデルを買い直しています。合計で1万4000円。最初から一本に絞っていれば済んだ出費でした。
差が出るのはスイッチの耐久回数とセンサーの追従性、それと充電方式。安価な製品は単三電池で駆動するものが多く、電池を入れると本体が一気に重くなります。手首を守るために買ったのに、持ち上げるたびに前腕が張るという矛盾。
手のサイズと利き手で、当たり外れが決まる
ここが盲点でした。エルゴノミクスマウスは体に合わせる道具なので、体が違えば結果も変わる。
手が小さいと、ボタンに指が届かない
住人の一人は手のひらの長さが16センチほど。大型の縦型を握ると、親指側のサイドボタンが遠すぎて、押すたびに手全体をずらす必要がありました。手首を浮かせる姿勢が固定され、前腕の外側がジワジワ張ってくる。
手を守るために買った道具で、別の場所が痛くなる。これは笑えない。
判断材料は手のひらの実寸です。手首のシワから中指の先までを測って、メーカーの推奨サイズと突き合わせる。この一手間をやるかどうかで、成功率が変わります。
左利きは、そもそも選べる製品が数えるほど
シェアハウスに左利きの住人が一人います。縦型マウスは左右非対称の造形なので、左手用は市場にほとんど出回っていません。あっても種類が少なく、色も形も選べない。
その人が最終的に落ち着いたのは、左右対称のトラックボール。人差し指と中指でボールを操作するタイプです。ただし親指型とは指の使い方が完全に別物で、レビュー記事の情報がそのまま当てはまらない。参考にできる声が少ないのは、地味にきついポイントでした。
痛みの原因がマウスじゃなければ、何も変わらない
これがいちばん伝えたい話。
整形外科で言われたのは、机の高さだった
電話対応の仕事をしている大槻さんは、右手のしびれが取れず病院へ行きました。エルゴノミクスマウスを買う直前です。
診察で指摘されたのは、マウスではなく机と椅子でした。天板が高すぎて肩がすくみ、肘が体から離れた位置で固定されていた。腕の重さを肩と首で支え続けた結果、神経が圧迫されていたという話。
椅子を上げて、足元に踏み台を置き、肘掛けの高さを天板に合わせた。それだけで二週間後にはしびれが引いています。マウスは普通のものを使い続けたまま。
キーボードとマウスの距離も効く
もう一つ効果があったのが、テンキー付きキーボードをやめたこと。テンキーの幅ぶん、マウスが体の右外側に追いやられていたんですね。肩が開いた状態で一日中操作していれば、そりゃ張る。
キーボードを小さくして、マウスを体の正面近くに寄せる。この配置換えのほうが、マウス本体の形状より効いた住人が実際にいます。
痛みの原因を切り分けないまま1万円を出すのは、順番が違う。まず机の高さ、肘の角度、マウスの位置。そこを直しても残る痛みに対して、初めて道具の形が意味を持ちます。
精密作業とゲームでは、はっきり不利
写真のレタッチ、イラスト、図面、そしてゲーム。この領域では素直に弱いです。
縦型は手首をひねる動きが操作に混ざるため、1ピクセル単位の微調整で揺れが出る。トラックボールは腕を使わないぶん、精度の全責任が指先に乗ります。素早く大きく動かして、ピタリと止める動作が苦手。
対戦ゲームをやる住人は、結局二台体制に落ち着きました。仕事中は縦型、夜は普段の軽いマウス。ケーブルを差し替えるひと手間を許せるなら、これがいちばん現実的な着地点だと思う。
掃除と専用ソフト、地味な手間が増える
トラックボールは支持球とボールの隙間に、ホコリと皮脂がたまります。放置すると転がりが渋くなって、カリカリと引っかかる感触に変わる。二週間に一度、ボールを外して拭く習慣が要ります。これを面倒がる人には向きません。
会社の貸与パソコンに、設定ソフトを入れられない
多ボタンモデルの魅力は、コピーや進む戻るを指一本で呼び出せるところ。ただしボタンの割り当てには、メーカー純正の設定ソフトが必要な場合が多い。
住人の一人は、会社から貸与されたパソコンにソフトのインストール許可が下りませんでした。せっかくの追加ボタンが、押しても何も起きない飾りに。
共用パソコンで使う場合も同じで、自分の手に最適化した道具は、他人が触った瞬間にただの使いにくいマウスになります。オフィスの共有席で使うつもりなら、この点は先に確認しておいたほうがいい。
それでも元のマウスに戻れない人がいる
散々書いてきましたが、佐倉さんは今も縦型を使っています。三日で音を上げたあの人が、です。
二週間目に何かが切り替わったらしく、ドラッグの失敗が減った。ひと月経つころには、夕方に湿布を探す動きがなくなっていました。試しに前のマウスへ戻した日、三日で手首の内側がズキッときて、慌てて元に戻したそうです。
デメリットを飲み込めるのは、こういう人
一日に六時間以上マウスを握り、作業の中身が文字と資料の操作中心で、机の位置が固定されている。この三つがそろっている人は、二週間の生産性低下を払う価値があります。
逆に、パソコンを触るのが一日二時間程度、移動が多い、細かい描画作業がメイン。このどれかに当てはまるなら、マウスを買い替えるより先に机まわりを整えたほうが、体はラクになる。金額も1万円かかりません。

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