八月の夜、室温は三十一度のままだった
共用リビングのエアコンが壊れた年の夏。
修理まで二週間と言われて、住人が羽根のない扇風機を持ってきた。細長い筒から、涼しい風が出るやつ。
最強にして、四人でその前に座った。
確かに風は来る。前髪が持ち上がるくらいの強さ。肌の表面が乾いて、汗が引いていく。
「意外といけるじゃん」
そう言った三十分後、温度計を見た。三十一度。
下がってない。一度も
体感は涼しい。数字は動かない。この落差が、その夏の全部だった。
シェアハウスで三年、羽根のない送風機を二台と、エアコン六台を並行して使ってきた。
代わりになるかという問いには、はっきり答えが出ている。
室温を下げる機能は、ない
まず前提を揃える。
送風機は、空気を動かす道具。空気そのものを冷やす仕組みを持っていない。
むしろ、内部のモーターが熱を出す。閉め切った部屋で長時間回すと、室温はわずかに上がる。
エアコンは、部屋の熱を外に運び出す。まったく別の原理で動いている。
代わりになるかどうかを、この一点で判断すると、答えは決まってしまう。
それでも役割はある
ならば無意味かというと、そうでもない。
体感温度を下げる働きは、確かにある。汗が蒸発するときに、皮膚から熱が奪われる。
風速が上がると、この蒸発が速くなる。実際の気温が同じでも、涼しく感じる。
うちの実測では、風が当たっている状態と当たっていない状態で、体感に二度から三度の差があった。
単独で使うとき、どこまで耐えられるか
湿度が高いと、効かなくなる
これが最大の弱点。
風が涼しく感じるのは、汗が蒸発するから。空気が湿っていると、蒸発しない。
うちの夏、湿度が七十パーセントを超えた日は、風が当たっていても暑かった。生ぬるい空気が肌を撫でるだけ。
梅雨明けの蒸し暑い夜、四人が扇風機の前に座って、誰も涼しいと言わなかった。あの沈黙。
乾いた日なら働く。湿った日は、ほぼ無力になる。
室温三十度が、境目だった
うちの記録では、室温三十度を超えたあたりから、風だけでは足りなくなった。
三十度以下なら、風が当たっていれば過ごせる。
それを超えると、体温より低い空気であっても、蒸発が追いつかない。
体温に近い温度の風は、涼しさをほとんど生まない。
寝るときは、別の問題が出る
寝ているあいだは汗をかくが、動かない。
風が同じ場所に当たり続けると、その部分だけ冷える。
うちの住人が、首に直接風を当てて寝て、翌朝に首が回らなくなった。
首振り機能を使う。あるいは、壁に向けて風を反射させて、部屋全体の空気を動かす。
直接当てないほうが、結果的に快適だった。
エアコンと組み合わせると、化ける
設定温度を、二度上げられる
うちが三年かけてたどり着いた使い方。
エアコンを二十八度に設定して、送風機で空気を回す。
これで、エアコン単独の二十六度と同じくらいの体感になった。
消費電力の差は明確で、うちの共用リビングでは夏場の電気代が二割ほど下がった。
冷たい空気は、下に溜まる
エアコンから出た冷気は、重いので床付近に溜まる。
天井付近は暑いまま。この温度差が、部屋の不均一を作る。
送風機を上向きにして、床の冷気を天井へ送る。あるいは、部屋の対角線上に置いて、空気を循環させる。
うちは、エアコンの対角の隅に置いて、エアコンに向けて風を送っている。冷気が部屋を一周する。
これをやってから、リビングの中で寒い席と暑い席の差がなくなった。
立ち上がりが、速くなる
帰宅してエアコンをつけたとき、部屋が冷えるまでの時間。
送風機を同時に回すと、冷気が早く行き渡る。
うちの体感では、冷えるまでの時間が半分ほどになった。
最初の十分だけ強で回して、部屋が落ち着いたら弱に落とす。
羽根がない形式の、実際の使い勝手
掃除が、圧倒的に楽
これは本当に効いた。
羽根のある扇風機は、カバーを外して羽根を洗う必要がある。ねじを回して、分解して、乾かして、組み立てる。
うちの住人は、この作業が面倒で、二年間一度も洗っていなかった。カバーの隙間から見える羽根が、灰色の毛羽で覆われていた。
羽根のない形式は、筒の内側を布で拭くだけ。三分で終わる。
共同生活で、手入れの手軽さは続くかどうかを直接左右する。
子どもや動物がいても、安心
指が入る隙間がない。
うちに小さい子が遊びに来たとき、羽根のある扇風機のほうは常に見張っていた。
羽根のない形式は、上部の穴に指を入れても何もない。
この安心感のために選ぶ人が、うちの住人にもいた。
風の質が、違う
羽根のある扇風機は、風が断続的に来る。羽根が回るたびに、脈打つような感覚がある。
羽根のない形式は、連続した風になる。むらがない。
長時間当たっていても、疲れにくい。うちの住人はこの点を評価していた。
ただ、風が届く距離は、羽根のあるものより短い機種が多かった。
音の質も、違う
低い唸りではなく、高めの風切り音になる。
うちの一台は、最強にすると、しゅーという音が気になった。
弱で使うぶんには静か。寝室で使うなら、音の種類を店頭で確認したほうがいい。
音の好みは、人によって割れる。うちの住人は二人が気にならないと言い、二人が気になると言った。
電気代の実際
送風だけなら、非常に安い
消費電力は、機種によるが数ワットから四十ワットほど。
一日八時間回しても、月に数百円の範囲に収まる。
エアコンとは桁が違う。
うちは、朝から夕方まで無人のリビングで、送風機だけ回している時間帯がある。空気がこもらない。
暖房機能付きは、別
温風を出せる機種がある。
この機能を使うと、消費電力が一気に上がる。千二百ワット前後。
うちの住人が冬に使って、電気代の請求を見て青ざめていた。
暖房として使うなら、エアコンのほうが効率で上回る。補助として、局所的に使う道具と考える。
空気を清浄する機能
フィルターが入っている機種は、交換の費用がかかる。
うちの一台は、年に一度の交換で八千円ほど。
本体価格だけで判断すると、後から効いてくる。
使う前に、交換部品の値段と頻度を調べておく。
エアコンがない部屋で、どうするか
窓を開けて、外に向ける
これが一番効いた使い方。
送風機を窓に向けて置き、室内の熱い空気を外へ押し出す。
反対側の窓や、ドアを開けておくと、そこから外の空気が入ってくる。
うちの二階の部屋は、この方法で室温が二度下がった。夜、外気のほうが涼しい時間帯に限る。
部屋の中で空気を回すだけでは、室温は下がらない。外と入れ替える。
濡れたタオルと、組み合わせる
送風機の前に、濡らしたタオルを吊るす。
水が蒸発するとき、周囲の熱を奪う。その冷えた空気が送られる。
うちで試したら、風が当たる範囲で一度から二度下がった。
湿度が上がるので、部屋がじめつく。乾燥した日にだけ使える手。
それでも限界がある
猛暑日、あるいは熱帯夜。
外気そのものが体温に近い日は、どんな工夫をしても涼しくならない。
うちは、エアコンが壊れていた二週間のうち、三日は住人が別の部屋に避難した。
命に関わる暑さの日に、送風機で粘るのは危ない。この判断だけは、はっきりさせておく。
先月、リビングでミオが送風機の向きを変えていた。
エアコンの対角の隅に置いて、上向きに角度をつける。設定温度は二十八度。
座っている場所によって暑さが違う、という文句が出なくなってから、もう二年になる。
「これ、単体だと意味ないんだよね」
そう言いながら、彼女は風の流れる先を目で追っていた。カーテンの裾が、ゆっくり揺れていた。

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