三週間、この家の火災報知器は死んでいた
天井の白い丸。あそこにポリ袋がかぶせてあることに、誰も気づいていませんでした。
三週間。
その間、うちの二階の廊下で火が出ていたら、警報は一秒も鳴らなかった。輪ゴムで留められた袋が、煙をきれいに遮っていたから。
気づいたのは、脚立に乗って電球を替えていたタケさんです。
「……これ、まだ袋かぶってる」
下から見上げた私の喉が、勝手にごくりと鳴りました。
かぶせたポリ袋を、誰も外さなかった
バルサンを焚いた日、手順は完璧だったんです。
報知器を覆い、換気して、床を掃除して、食器を洗って。全部やった。全部やって、最後の一手だけが抜けた。
(外すのは、明日でいいか)
その明日が、三週間後に来た。
手順の前に、これだけは言っておきたかった
鳴ることより、鳴らなくなることのほうが、はるかに危ない。
カバーを外す日を、焚く前にカレンダーへ書き込む。玄関のドアに紙を貼る。そこまでやって、ようやく手順が完成します。
アパートで焚くなら、煙タイプを選ばない
煙、水、霧。まったく別の道具です
同じ棚に並んでいるので、みんな適当に手に取る。中身は全然ちがいます。
煙が出るタイプは、いちばん強い。隅々まで薬剤が回る。その代わり、白い煙がもうもうと立ちのぼり、報知器は確実に反応します。においも残る。
水を入れて反応させるタイプは、煙が控えめ。それでも湯気は出る。
霧が出るタイプ、ノンスモークと書かれているもの。煙が立たないので、報知器が反応しにくく、においも軽い。
木造アパートで焚くなら、霧一択です。ここは迷わなくていい。
隣の窓から入る、という現実
煙タイプの怖さは、自分の部屋で完結しないところ。
換気口、ベランダの窓の隙間、玄関ドアの下。そこから白い煙がしゅううと漏れて、共用廊下に流れ出す。
それを見た隣の人が、通報する。消防車が来る。この事故、本当に起きています。
うちの一階のアヤさんは、隣の窓のサッシから煙が這い出てくるのを見て、膝が笑ったと言っていました。
管理会社への一本の電話が、いちばん効く準備
ここを飛ばす人が多い。
建物によっては、各部屋の報知器が共用部の受信機とつながっています。一つ鳴ると、建物全体のベルが鳴り、管理会社や消防に信号が飛ぶ。個人でカバーをかけたところで、話が終わらない構造です。
そもそも契約で禁止されている物件もある。
焚く日と時間帯を伝えて、報知器の仕組みを確認する。電話一本、三分。この三分をケチった人が、後で一日を潰します。
ついでに、両隣と上下の部屋に一声かけておく。菓子折りは不要。一言でいい。
焚く前日にやること
報知器を覆う。外す日を決めてから覆う
製品に専用カバーが入っていることがあります。なければポリ袋をかぶせて、輪ゴムで根元を留める。
このとき、袋に貼るんです。外す日付を書いた紙を、目立つ色のテープで。
天井を見上げる人間なんて、そうそういません。だから見えるところに残す。玄関のドアの内側に、外すことを書いた紙を貼るのがいちばん効きました。
生き物は、全部よそへ
犬、猫、鳥、ハムスター。連れて出る。
やっかいなのが水槽です。魚は薬剤に弱い。エアポンプを止めて、水槽ごとビニールで密閉する。ポンプを回したままだと、薬剤入りの空気を水に送り込むことになります。
観葉植物も外へ。ベランダで一晩、風に当てておく。
虫を飼っている人は、その日は焚かない。当たり前ですが、忘れる人がいる。
開けるものと、しまうもの
薬剤は、開いている場所にしか届きません。
クローゼット、押し入れ、引き出し、シンク下、洗面台の下。全部、開ける。奴らが潜んでいるのは、まさにその暗がりですから。
逆に、しまうのは食器、食品、歯ブラシ、化粧品。使うものに薬剤がかかると、あとで洗う手間が増える。
パソコンやテレビには、大きなビニールをふわっとかぶせておく。密閉しなくていい。埃よけと同じ感覚で足ります。
布団の扱いは、目的で真逆になる
ここ、意外と誰も書いていません。
ゴキブリを狙って焚くなら、布団は袋に入れてしまう。薬剤が寝具に付くのを避けたいから。
ダニやノミを狙って焚くなら、布団は広げて出しておく。薬剤を当てないと意味がないので。
同じ製品で、正解が反転する。何を殺しに行くのか、先に決めてください。
当日、二時間の外出
隙間を作ってから、部屋を閉じる
窓は閉める。換気扇も止める。エアコンも止める。
そのうえで、家具を数センチ壁から離す。冷蔵庫の裏、洗濯機の下、本棚の裏側。薬剤の通り道を作ってやるイメージです。
部屋の真ん中の床に、燃えにくいものを敷いて、その上に本体を置く。畳やフローリングに直置きしない。
出る前の、最後の三秒
スイッチを入れたら、部屋を出る。
そのとき、ドアの前で三秒だけ立ち止まって、頭の中で唱えてほしい。報知器、生き物、鍵。
この三つを確認したら、閉める。ぱたん、と。あとは表示された時間、戻らない。二時間なら二時間、律儀に待つ。
早く帰って窓を開けたくなる気持ちはわかります。でも、効いている最中の空気を吸う理由は、どこにもない。
帰ってからの三十分
戻ったら、まずマスク。それから窓を全部開けて、換気扇を回す。三十分から一時間。
このとき玄関のドアも開けたいところですが、共用廊下に薬剤を流すことになるので、開けるなら短時間で。
食器や調理器具は、面倒でも洗う。かかっていないつもりでも、空気は全部の面を触っています。
死骸の数に、心が折れかける
出てくるのは、効いている証拠
換気しながら床を見た瞬間の、あのぞわっとする感じ。
壁際、家電の裏、シンクの下。潜んでいたものが、みんな出てきて、みんな転がっている。
数が多いほど、心は折れます。(こんなにいたのか、この部屋に……)
でも、それは失敗じゃない。見えていなかっただけ。バルサンは、部屋の本当の在庫を可視化する装置でもあります。
掃除機で吸っていいのか
吸っていい。ただ、紙パック式なら、パックごと捨てる。サイクロン式なら、すぐにゴミを出して、カップを洗う。
死骸を放置すると、それを食べに別の虫が来ます。数日後に小さな虫がわいて、二次災害。
カサ、と乾いた音が掃除機に吸い込まれていく。あの音を、一時間ほど聞き続けることになる。覚悟しておいてください。
一回では、終わりません
卵には、届かない
薬剤は、成虫と幼虫には効く。卵の殻の中までは効かない。
硬い鞘に包まれた卵は、平然と生き残ります。そして、あなたが安心しきった頃に孵る。
一回焚いて、二週間後にまた見かけた。効かなかった。この感想の九割は、卵の仕業です。
二週間後の二回目が、本番
だから、最初から二回セットで計画する。
一回目から二週間後、遅くとも三週間以内に、もう一度。孵ったばかりの幼虫を、成虫になる前に叩く。
うちは一回で満足して、一か月後に振り出しに戻りました。二本目を買う数百円を惜しんで、また丸一日の準備をやり直す。あれは、いちばん割に合わない節約でした。
焚いた翌日が、本当の勝負
隙間を塞がなければ、二か月で戻る
部屋の中を空にしても、外から入ってくる。集合住宅なら、なおさら。
排水口。エアコンのドレンホースの先。換気扇の隙間。玄関ドアの下。壁を貫通している配管の周り。
入り口を塞がないまま焚くのは、穴の空いたバケツに水を注ぐようなものです。
うちは翌日、全員でホームセンターへ行きました。防虫キャップと、隙間テープと、パテ。半日で終わる作業でした。
バルサンは駆除じゃなくて、リセット
考え方を変えたほうがいい。
バルサンは、いま部屋にいるものを一掃するための道具。これから入ってくるものは、止められません。
一掃したあとに、置き型の毒餌を仕掛ける。隙間を塞ぐ。生ゴミを出しっぱなしにしない。段ボールを部屋に溜めない。
焚いた日にやることより、焚いた翌日から続けることのほうが、結果を決めています。
ちなみに天井のポリ袋は、あの日のうちに外しました。今は、外す日を書いた紙が玄関に貼ってあります。二回目のときも、たぶん貼るでしょう。忘れる人間を責めるより、そのほうが早い。

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