契約書の内訳に、一万八千円の行があった
入居申込のとき、カウンターに紙を滑らせながら担当者が言った。
「こちら、消毒施工が一万八千円になります」
指はもう次の欄に移っていた。あまりに流れるような口ぶりで、質問するタイミングを完全に逃した。
(え、今の、選べるやつだった?)
喉まで出かかった言葉を飲み込んで、ボールペンを握り直した。あのときの手汗、今でも思い出す。
結局その物件は見送って、別のシェアハウスに決めた。そっちでは同じ項目を断った。
三年住んだ。ゴキブリと目が合った回数、二回。どちらも夏の深夜、キッチンの排水口の近く。
一万八千円ぶんの差があったかと聞かれたら、なかったと答える。
断れる。ただし言い方がある
消毒施工、害虫駆除、抗菌コート。呼び名は業者によって変わるけど、中身はだいたい同じ。
これは任意のオプション。契約の条件ではない。
外せませんと言われることがあるが、そこで引き下がらなくていい。言葉の選び方で結果が変わる。後半に、実際に使ったフレーズを書く。
断ったあとが本番
勘違いしてほしくないのは、断ることそのものがゴールじゃないという点。
浮いた金の一部を、自分でやる対策に回す。それでやっと、施工を受けるより良い状態になる。
何もせずに断っただけの住人が、入居二週間でチャバネゴキブリの群れに遭遇して、深夜に叫んでいた。あれは見ていて気の毒だった。
あの施工で、実際に何をしているか
作業時間は十五分から二十分
知り合いの入居に立ち会って、目の前で見たことがある。
作業員が来て、キッチンのシンク下、洗面台の下、浴室の排水まわり、玄関のたたき。この四か所に薬剤を噴霧して終わり。
壁の裏や床下には入らない。家具のない空室だから、隠れる場所も少ない。
玄関を出ていくまで、腕時計で十八分だった。
効き目の残る期間
噴霧型の薬剤が床や壁面に残って効くのは、環境にもよるが数か月というのが実感に近い。
入居してから床を拭き、荷物を置き、生活が始まる。薬剤の膜は日常の掃除で削れていく。
つまり守られているのは、入居直後のいちばん虫が出にくい時期。ゴキブリが本気で動き出す七月から九月のころには、もう薄い。
このタイミングのずれが、いらないと感じる根っこにある。
虫は部屋の外から来る
空室を消毒しても、外とつながる経路は塞がれない。
排水管、換気扇のダクト、エアコンのドレンホース、玄関ドアの下のすき間。
集合住宅なら、隣の部屋や共用部からも移動してくる。うちのシェアハウスで出た二回は、両方とも下の階から上がってきた線が濃い。
入口を開けたまま部屋の中だけ拭いても、また入ってくる。
断るときに使った言葉
必要か聞くと、必要ですと返ってくる
最初にやった失敗がこれ。
これって必要ですか、と聞いた。
返ってきたのは、前の入居者のこともありますし、やっておいたほうが安心です、というやつ。会話が終わってしまう。
質問の形にすると、相手には答える権利が生まれる。そこを渡してはいけない。
自分でやるので外してください
言い方を変えた。
消毒は自分でやりますので、この項目を外していただけますか。
決定を先に置いて、依頼の形で渡す。担当者は少し黙って、確認しますと言って席を立った。三分後、外れた見積もりを持ってきた。
必要かどうかの議論に入らないのがコツ。やるかやらないかは、もう決めた話として進める。
それでも外せないと言われたら
契約書のどの条項に基づく義務なのか、書面で確認したいと伝える。
声を荒らげる必要はない。淡々と、書面という単語を出す。
うちの住人でこれをやった人は、五分後に外してもらえた。任意のものを義務と説明していた場合、相手にとって書面に残すのは避けたい話になる。
それでも通らなければ、その分の値引きを求めるか、物件そのものを見直す判断もある。
浮いた金でやる、自分の駆除
荷物を入れる前の一時間が勝負
空室の状態は、二度と来ない好機。
家具がない、隠れ場所がない、床が全部見える。この状態でやれることが一番効く。
まず燻煙剤を一回。部屋の広さに合ったものを選んで、説明書どおりに焚く。二時間後に窓を全開にして換気。
このときシンク下の扉、収納、押し入れ、全部開け放つ。閉めたままだと、そこだけ避難所になる。
ベイト剤を、床ではなく暗がりへ
毒餌を置く場所で、効き方が変わる。
部屋の真ん中に置いても意味がない。あいつらは壁づたいに歩く。
冷蔵庫の裏、シンク下の奥、洗面台の配管の根元、玄関の靴箱の下。暗くて、狭くて、湿っている場所。
一部屋に六個から八個。多いと感じるかもしれないが、間隔が空くと素通りされる。
半年ごとに交換。うちは春と秋に、住人総出で入れ替えるのが恒例になった。
すき間を物理的に埋める
薬より先に、入口を塞ぐ。
エアコンのドレンホースの先に、専用のキャップをつける。あの細い管、下から普通に上がってくる。
排水管が床から出ている根元のすき間には、市販のパテを詰める。指で押し込むだけ。
換気扇のフィルターも、目の細かいものに替える。
ここまでで、かかった金は三千円ほど。作業時間は全部で一時間半。
一万八千円と比べたときの差が、そのまま手元に残った。
受けたほうがいい部屋もある
飲食店の上、一階、古い木造
断るのが常に正解ではない。
建物の一階に飲食店が入っている物件。ここは別枠で考える。厨房の熱と食べ物のにおいが、上の階に虫を呼び上げる。
一階の部屋、それも半地下や、庭に面した窓のある部屋。地面が近いほど侵入経路が増える。
築年数が古くて、床と壁の境目に目に見えるすき間がある建物。
このどれかに当てはまるなら、自分で業者を選んで頼むほうがいい。仲介経由の一万八千円より、専門業者に直接依頼したほうが、施工範囲も薬剤も納得できる内容になる。
内見のとき、しゃがんで見る場所
判断材料は、部屋を見に行った時点で拾える。
シンク下の扉を開けて、奥の隅に懐中電灯を当てる。黒い粒が点々と落ちていたら、それは糞。
洗面台の配管の根元。壁と床の境目。冷蔵庫を置く予定の場所の後ろ。
築古の物件で、この三か所に何もなければ、管理はまともに回っている。
不動産会社の人がいる前でしゃがみ込むのは、正直ちょっと恥ずかしい。でもあとで泣くよりましでしょ。
三年間の実測
遭遇二回。両方とも八月
記録をつけていたわけじゃないけど、覚えている。
一回目は入居した年の八月。キッチンの床を、五センチくらいの黒いのが横切った。心臓が跳ねて、手に持っていたコップを落としそうになった。
二回目は翌年の八月、風呂場の排水口の近く。
どちらも、ベイト剤の交換をさぼった時期と重なる。因果は言い切れないけれど、そのあときちんと交換したら、次の夏は出なかった。
効いたのは、薬より習慣
三年やって、いちばん効いたと思っているのは薬剤じゃない。
生ゴミをその日のうちに玄関の外へ出す。シンクの水気を寝る前に拭く。段ボールを部屋に溜めない。
特に段ボール。あれは巣になる。引っ越しのあと片付けずに積んでおいたら、そこから出た。
共同生活だと、この習慣を全員で回せるかにかかってくる。一人がゆるむと、部屋全体がゆるむ。
先週、新しく入ってきたリョウが、契約前に電話で相談してきた。
消毒の項目、断っていいものか迷っていると。
断りな、と言った。そのかわり荷物入れる前に一時間くれ、と付け足した。
入居当日、彼は約束どおり空の部屋で待っていた。燻煙剤を焚いて、二人でベランダに出た。
八月の夕方の風が、汗をかいた首筋を撫でていった。
「これ、ほんとに効くんすか」
効くよ。少なくとも一万八千円ぶんは。

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