「ケトル、捨てました」
金曜の夜、共用キッチンでユカリさんがそう言ったとき、テーブルの四人が同時に手を止めた。
壊れたわけじゃない。まだ使えるものを、引っ越しのついでにリサイクルに出したという。
理由を聞いたら、答えがあっさりしていた。
「あの子、お湯を沸かすことしかしないのに、いちばんいい場所に座ってたんですよ」
その日から彼女のコンロには、薄いステンレスのやかんが一本、置きっぱなしになった。三か月後の話を聞きにいったら、想像していた展開とはだいぶ違っていた。
手放して最初に効いたのは、カウンターの四十センチ
湯を沸かすためだけの家電が占めていた面積
電気ケトルの底面は、おおよそ二十センチ四方。台座を含めると、まな板一枚ぶんの場所を専有する。
一口コンロのミニキッチンだと、作業に使える平らな面はもともと四十センチあるかどうか。そこに炊飯器とケトルが並んでいれば、包丁を入れる場所は残らない。
ユカリさんが最初に感じた変化は、湯の話ですらなかった。まな板が置ける。買ってきた惣菜のパックを開ける場所がある。
「野菜を切るために、いちいちケトルを床に下ろしてたんです。それがなくなっただけで、料理を始めるまでのハードルがすとんと下がった」
コンセントが一口空くと、朝の動線が変わる
古い建物のキッチンは、コンセントが二口しかないことがざらにある。冷蔵庫と電子レンジで埋まる。
ケトルを差すために毎回何かを抜いていた人が、その儀式から解放される。トースターを常設できるようになった、という副産物のほうが大きかったりする。
消えた家電の跡地に、何を置くか。手放す前に決めておくと、後悔の芽が減る。
光熱費で選ぶ理由は、ほとんどない
カップ一杯と一リットルで、いくら違うのか
節約になると思って乗り換える人がいるけれど、ここははっきり言い切っておく。金額はほぼ動かない。
電気ケトルでカップ一杯の百四十ミリリットルを沸かすと、電気代はおよそ〇・五円。一リットルなら三円前後。
やかんで一リットルを都市ガスで沸かすと、二円から三円台。プロパンなら都市ガスの一・五倍から二倍で、三円台の半ばあたり。
毎日二回沸かして、年間で数百円から千円ちょっとの差。缶ビール数本ぶんのために生活の手順を変えるかというと、動機としては弱い。
沸く速さは、火力とやかんの底で倍近く動く
比較記事を読み漁ると、数字がまるでそろわないことに気づく。一リットルが二分半で沸くと書いてあるものもあれば、七分半とするものもある。
どちらも嘘ではない。底が広くて薄いステンレスのやかんを強火にかければ早いし、厚手のホーローに中火なら倍かかる。コンロの火力そのものも建物ごとに違う。
電気ケトルが一定なのは、この揺らぎがないから。一リットルでおよそ五分半、百四十ミリリットルなら一分弱。毎回同じ。
つまり比べるべきは金額でも平均時間でもなく、読める速さかどうか、なんだよね。
やかんに戻して三日で音を上げる人の共通点
その都度沸かす方式を、そのまま続けようとしている
手放して挫折する人を何人か見てきたけれど、原因はだいたい同じところにある。
ケトルと同じ使い方をやかんでやろうとする。飲みたくなるたびに火をつけて、シュンシュン鳴るのを待って、また消す。一日五回それをやれば嫌になるに決まっている。
道具を替えたのに、運用を替えていない。ここで折れる。
注ぎ口のない鍋で代用している
やかんを買い足すのが面倒で、片手鍋で済ませようとする人も多い。
これがまた地味に効く。縁から注ぐと湯が伝って垂れる。マグカップを狙って傾けた瞬間、手の甲に熱いのが落ちてヒヤッとする。
注ぎ口のあるミルクパンなら解決するし、直火のケトルなら千円台から手に入る。ここをケチると、生活の質が数か月にわたって削られていく。
続いている人は、朝に一度しか沸かさない
魔法瓶に移せば、日中の湯が切れない
ユカリさんのやり方は単純だった。朝いちばんにやかんで一・五リットル沸かして、そのまま卓上の魔法瓶へ移す。
以上。これで夜まで持つ。
コーヒーも白湯もカップスープも、蓋を押すだけ。沸かす回数が一日一回に減れば、火をつける手間は誤差の範囲まで縮む。
保温機能つきの電気ポットとの違いは、電気を一切食わないこと。ステンレスの魔法瓶なら、朝に入れた湯が夕方でも湯気を上げる。
「ケトルを捨てたというより、ポットに引っ越したって感じですね」
彼女の言い方が的を射ていた。置き換えたのは沸かす道具ではなく、湯を貯める場所のほう。
冬の朝、四人が同時に湯を欲しがる問題
シェアハウスで暮らすと、一リットルの限界がすぐ見える。
出勤前の時間帯、四人がマグカップを持って並ぶ。電気ケトルは満水でも一リットルで、四杯淹れたら空になる。次の人はまた五分待つ。
やかんなら二リットルを一度に沸かせる。人数が増えるほど、火のほうが強い。
指がかじかむ十二月の朝に、コンロの上でぐらぐら音がしているのを眺めながら順番を待つ時間。あれはあれで悪くない。ケトルのカチッという音には、待ち合わせの気配がないから。
それでも詰んだ場面が、三つあった
熱を出して、台所に立てない夜
三か月のあいだで唯一、彼女が本気で後悔した日。
三十八度台の熱でベッドから起きられず、薬を飲むための水も湯もない。コンロまで七歩の距離が遠かった。火をつけて、沸くまで立っていて、消す。この工程が体調によっては越えられない壁になる。
枕元にケトルを持ち込めば済む話だったんだよなあ、と本人も認めていた。
ひとり暮らしで、頼れる相手が近くにいない人。この一点だけで手元に残す価値がある。
火を使う以上、その場を離れられない
電気ケトルは沸けば勝手に切れる。空焚きも止まる。この安心を手放したことになる、という自覚は要る。
やかんをかけたままメイクを始めて、戻ったら底が焦げていた、という話は珍しくない。ホーローなら塗装が剥げるし、最悪はボヤ。
ユカリさんはコンロのそばにタイマーを置いた。それでも、火をつけた瞬間から頭の片隅が拘束される感覚は消えないという。
湯たんぽと、深夜のカップ麺
湯たんぽは一・五リットル前後を一気に必要とする。ケトル一台では足りず、やかんのほうが向いている。ここは手放して正解だった側。
つまずいたのは深夜。共用キッチンの火を、二時にひとりで使う気まずさ。ガスの音は思ったより響くし、換気扇をまわせば階段まで伝わる。
ワンルームでも事情は似ていて、隣室と壁一枚なら深夜のコンロは気を遣う。ケトルの一分は、その点でとても静か。
買い直すか、手放すかの線引き
手放していい人
コンロが二口以上あって、片方を湯専用にできる。魔法瓶を置く場所がある。朝に十分の余裕がある。
この三つがそろっているなら、電気ケトルはもう役目を終えている。カウンターを取り返したほうが、日々の満足度は上がる。
在宅で働いている人にも向く。日中に何度も湯を使うぶん、朝のまとめ沸かしが効いてくるから。
持っておいたほうがいい人
家を出るまでが十五分しかない朝を送っている人。ここは迷わず持つ。二分の差が、駅までの走り方を変える。
体調を崩したときにひとりで対処する必要がある人。小さな子どもがいて火のそばを離れる場面が多い人。IHのないワンルームで、コンロが一口しかない人。
コンロが埋まっているあいだ湯が沸かせない不便は、想像より頻繁にやってくる。パスタを茹でながらコーヒーを飲みたい、その程度のことができなくなる。
ユカリさんの部屋には今、細口の直火ケトルと、口の広い魔法瓶が並んでいる。合わせて六千円ほど。
捨てた電気ケトルより安く済んだ、と笑っていたけれど、あの熱の夜の話をするときだけ声が少し低くなった。

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