洗面所の壁に貼られた当番表の下で、その洗濯機は毎日フル稼働している。住人が入れ替わり立ち替わり、朝も夜も回す。共同生活だと、いちばんの働き者はたぶんこの家電だ。パネルの右下、小さく並んだボタンのひとつに槽風乾燥と書いてあった。初めて見たとき、指がすっと伸びた。
これで乾燥機いらないじゃん
本気でそう思ったし、恥ずかしい話、住人にまで「もう外干しやめようぜ」と得意げに言った。数時間後、ドラムから引き出したジーンズはひやりと重く、内側はまだ湿っている。……ん?聞いてた話と違う。
槽風乾燥は熱を使わない、風で水分を飛ばす機能
説明書きを引っ張り出して読んでみた。熱で乾かすのではなく、風を送って水分を飛ばす。ヒーターを回さないぶん、電気の食い方がぐっと小さい。省エネ寄りの乾かし方なのだ。ドラムの中を室温の風が通り抜けて、表面の湿り気から先に持っていく。そんな絵が近い。だから回している最中に手を近づけても、温風みたいにほかほかはしてこない。ふわっとぬるい空気が流れる程度。これを乾燥機と同じ土俵に乗せて眺めると、評価を思いきり読み違える。
服を乾かす役目と、洗濯槽を乾かす役目がある
暮らしてみて腑に落ちたのは、この機能に役目が二つあること。ひとつは衣類の水分をある程度抜くこと。もうひとつが、洗濯槽そのものを乾かして、カビや臭いを寄せつけない働きだ。後者を知らずに使っている人、正直かなり多いと思う。服のほうだけ見ていると、大して乾かないな、で終わってしまう。ところが槽を乾かす役目に目が向いた瞬間、この機能の株が一段跳ね上がった。服の乾燥はおまけ。主役は槽のほう。住人みんなの評価も、だいたいそこに落ち着いている。
乾燥機の代わりを期待すると、たぶん肩透かしを食う
あのジーンズで懲りた。厚手のタオルも同じで、40分回したあとに頬へ当ててみると、表面はいけそうなのに芯が冷たく湿っている。ぺたっと張りついて離れない。(あー、これは無理なやつだ)そのままラックへ戻した。パーカー、デニム、綿の分厚いタオル。この辺りは風だけでは芯まで届かない。乾燥機のつもりで買うと、まず裏切られる。ここははっきり言い切る。槽風乾燥は衣類乾燥機の代替品ではない。そもそも担う役割が違うのだから、同じ物差しで測ること自体がずれている。
薄手は風でほどけて、タオルは黙り込む
薄いか厚いか。乾き方の分かれ目は、ほぼここで決まる。生地が薄ければ風が奥まで抜けるし、厚ければ表面で止まる。単純な話だった。
ブラウスは軽くなる、ニットは湿ったまま
在宅で働く美月は、薄手のブラウスを何枚も回す人だ。脱水のあと槽風乾燥にかけておくと、干す前から生地が軽くて、持ち上げるとふわりと空気を含む。乾いたあとのシワも浅い。アイロンの滑りが段違いに楽になった、朝の支度がひとつ減ったと笑っていた。ところがニットになると事情が変わる。厚手のセーターを同じように回して、袖口を握ると、じわっと湿り気が残ったまま。結局そこへ除湿機を足す羽目になる。薄物は得意、厚物は苦手。線引きが驚くほどくっきりしている。
部屋干しのあと一歩を縮める下ごしらえに使う
いちばん実用的だったのは、乾かしきる道具としてではなく、下ごしらえの手として使う道だった。脱水のあと30分から40分ほど回す。そこで水分を一度抜いてから干す。翌朝の乾き上がりが目に見えて早くなる。学生の圭太は、雨が続いた週にこれで救われたと言う。梅雨どき、朝に触ったシャツがじめっと湿って重かったのが、この一手間を挟むだけで、起きた頃にはほぼ乾いている日が増えた。空気がカラッとする夏なら、夜に回して干せば朝には片づいていることも珍しくない。乾燥機ほど完璧にはいかない。それでも干す時間を半分に削るくらいの働きは、毎日じわじわ効いてくる。
干す場所が足りない家ほど、この一手間が効く
共同生活のベランダは、たいてい狭い。住人ぜんぶの洗濯物を一度に広げれば、干す場所はすぐ尽きる。ここで槽風乾燥が静かに効いてくる。脱水のあとにひと回しかけておくと、干す前の重さがまるで違う。持ち上げた瞬間の手応えで分かる。水を吸ってずしりと沈んでいたバスタオルが、腕への負担を落としてくれる。腰に不安のある人なら、この差はもっと響くはず。重いものを抱え上げる回数が減るだけで、干す作業そのものがぐっと楽になる。乾ききらなくても、いったん軽くしてから干す。狭い物干しと相談しながら乾かす量を決められるのも、ありがたいところだ。
本当に効くのは、服よりも洗濯槽のカビと臭い
散々に服の話をしておいて何だけど、この機能がいちばん輝く場所は別にある。洗濯槽のカビと、あの生乾き臭。ここでようやく本領を出してくる。
塩素系のツンとくる臭いから解放された
同居している遥は、前の住まいで洗濯槽のカビに手を焼き続けていた。月に一度は塩素系の洗浄剤を放り込んで、鼻を突くツンとした刺激に顔をしかめながら掃除する。換気扇を全開にしても、しばらく喉の奥に張りつく感じが抜けない。あれが本当に応えたらしい。今の洗濯機に替わってから、洗い終わりに空のまま1時間ほど槽風乾燥を回している。半信半疑で始めて、三か月。ある日ドラムの縁を指でなぞったら、黒い膜が指先についてこなかった。鼻を近づけても、あのツンがない。無言でもう一度嗅いだ。……本当に消えている。それきり、掃除の回数がはっきり減った。
洗い終わりに空で回す、習慣はそれだけ
やることは拍子抜けするほど少ない。洗濯が終わったら、中身を空にしてボタンを押す。以上。特別な洗剤も、ブラシでこする力仕事もいらない。一人暮らしの機械なら一日眠る時間もあるが、共同の洗濯機は回り続けて、扉を閉じたまま湿気を溜め込む。カビには格好のすみかだ。誰かが押し忘れても、次に気づいた人が回しておく。当番表の横に、洗ったら空回し、とだけ走り書きした紙を貼った。それだけのことで、脱衣所の扉を開けた瞬間のモワッとした生乾き臭が、ほとんど立たなくなった。手間はほぼゼロ。予防としては十分に効く。
どのくらい回せばいい?時間の目安を体で覚えた
何分回すのが正解か。マニュアルの数字より、暮らしのなかで体が覚えた目安のほうが頼りになった。
服の下ごしらえは30分、槽のカビ対策は1時間
服の下ごしらえなら、脱水後に30分から40分。これで干す前の湿り気がだいぶ抜ける。ここを長く回しても厚手が芯まで乾くわけではないから、薄物中心なら30分前後で切り上げて構わない。洗濯槽のカビ対策は、空の状態で1時間ほど。中身を入れず、槽の内側の水気をしっかり飛ばすには、服のときより長めがいい。用途で時間を変える。それだけのさじ加減で、無駄な運転を避けられる。夏と冬でも話は変わってくる。湿度の高い時期や寒い日は、同じ時間でも乾きが甘い。そのときは思い切って延長するか、割り切って干し時間で補う。
回しっぱなしで出かけても平気だった
在宅でないと使いにくいのでは、と最初は身構えた。実際はその逆だった。ボタンを押して家を出ても、勝手に止まってくれる。夜勤明けに洗濯を済ませ、槽風乾燥をセットしてから仮眠を取る、そんな回し方をしている住人もいる。帰宅したとき、洗濯物が少し乾いて、槽の中もさらっとしている。留守や睡眠の時間をそのまま活用できるのは、忙しい人ほど効いてくる。つきっきりで見張る必要がないから、家事の段取りに組み込みやすい。
一回あたり数円、でも季節と時間帯は選ぶ
財布の話も外せない。ここは槽風乾燥にとって、いちばん力強い追い風になる。ただし無条件ではない。
熱乾燥をやめたら請求書の桁が静かになった
ヒーターを使わないから、電気の食い方が小さい。一回でざっくり数円の世界だ。毎日回しても財布は痛まない。前に熱乾燥つきの機種を使っていた住人は、乗り換えてから明細の数字が下がったと話す。圭太も、1円でも電気代を削りたい学生の身には、熱を使わないこの乾かし方がちょうど合っていると言っていた。乾燥機をぶん回して請求額に青ざめる、という展開にならない。ここは腰を据えて毎日使える。省エネという言葉が、めずらしく誇張なしで当てはまる機能だと思う。
冬の風は冷たく、深夜のモーター音は壁を伝う
とはいえ万能ではない。ここも正直に置いておく。冬は送られてくる風そのものが冷たくて、水分の飛びが鈍る。夏に比べれば乾き上がりが一段落ちる。寒い時期に薄物の乾燥を頼りきると、当てが外れる。夜勤のある直は、帰りが深夜になる日に洗濯を済ませて回すのだけど、静音寄りの設定でもモーター音が思ったより耳につくと言う。壁越しにブーンと低い唸りが伝わってきて、隣で寝ている人が薄目を開ける。スマホの画面は2時40分。この時間か、と苦笑いが漏れる。共同生活だと、回す時間帯にひと呼吸ぶんの気づかいが要る。冷たい季節と、静かな時間。この二つだけは頭の隅に置いておきたい。
期待の向け先を変えると、この機能は化ける
槽風乾燥を乾燥機のミニ版だと構えると、いつまでも不満がくすぶる。見る角度をほんの少しずらすと、評価がまるごとひっくり返った。役目は二つ。干す時間を削る下ごしらえと、洗濯槽を清潔に保つ予防。この二本立てで掴んだ途端、地味なのに手放せない相棒になる。薄物を軽く乾かし、雨の日の部屋干しを前倒しにして、誰も進んで掃除したがらない洗濯槽を静かに守る。派手さはない。派手さはないけれど、毎日の家事から小さな面倒を、ひとつ、ふたつと抜いていってくれる。
共同の洗濯機が臭わない、それで元は取れた
今、脱衣所の扉を開けても、あの生乾き臭が鼻をつくことはもうない。当番表の下でフル稼働している洗濯機は、住人が何人代わっても、内側までさらりと乾いた状態を保っている。指で縁をなぞって黒い膜を探す癖も、いつのまにか消えた。乾燥機の代わりにはならなかった。それでよかった。服を完璧に仕上げる機能ではなく、家の洗濯機を長く気持ちよく使い続けるための機能。そう腹をくくった頃には、槽風乾燥はうちの生活にしっかり根を張っていた。

コメント